「ばれる」の態と他動性について

今日ネットでたまたま見つけた二次創作の漫画の中で、次のような文を含む台詞に出くわした。


(1) 蘭に正体をバレるわけにはいかない


「ばれる」は自動詞なので「正体がばれる」が普通だろうと思われたが、(1)も文法的であるように感じられた。そこで、どうしてこのような構造が生まれるに至ったのかについて、ごく簡単に考察してみた結果、可能な説明として次の3つを思いついた。


(ⅰ)「ばれる」が使役化された動詞とみなされた。
 つくtsuk-u/つけるtsuk-er-u、やすむyasum-u/やすめるyasum-er-uなどから類推すれば、「ばれる」bare-ruを、使役派生接尾辞-erを内部に含むbar-er-uと再分析することができる。この場合、実際に存在する必要はないが、*「ばる」ba-ruという自動詞が仮定される。すると*「ばる」は「明るみに出る」といった意味の自動詞であり、「ばれる」は「~を明かす」といった意味の他動詞ということになる。すなわち、*「(蘭に)正体がばる」を使役化したものが「(蘭に)正体をばれる」であり、(1)の「蘭に」はその与格(ニ格)Recipient(あるいはGoal)の周辺項がそのまま受け継がれたものであるといえる。また、-erを用いた使役であるので、「子供が休む」→「子供を休める」と同じく、「正体を」というふうに使役対象(causee)を対格で表すことができるのである。
 問題点として、この分析の場合は、もう一つの使役派生接尾辞である-asを内部に含む「ばらす」bar-as-uの存在を無視し、「intr.ばれる/tr.ばらす」のペアが「intr.ばる/tr.ばれる」に置き換えられているということになる。もっとも、「ばらす」と「ばれる」が共存することもありうるのだろうが、その場合、どのような意味上の違いでそれらは区別されるのだろうか。


(ⅱ)「ばれる」が受動化された動詞とみなされた。
 意味の似た、知るsir-u/知られるsir-are-ru、気づくkizuk-u/気づかれるkizuk-are-ruから類推すれば、「ばれる」bare-ruを、受動派生接尾辞-areを内部に含むb-are-ruと再分析することができる。この場合、実際に存在する必要はないが、*「ぶ」b-uという他動詞が仮定される。すると*「ぶ」は「~を見破る」といった意味の他動詞であり、それを受動化させた「ばれる」は「見破られる」の意味を持つということになる。すなわち、*「蘭が正体をぶ」が受動化されたものが「(蘭に)正体をばれる」なのである。「先生が窓ガラスを割る」→「(先生に)窓ガラスを割られる」のように、元々の能動文の目的語の対格標示を保たせることができ、行為主はニ格によって随意的に標示することができるのである(「蘭に正体がばれる」は「先生に窓ガラスが割られる」に対応する受動文である)。
 この分析の問題点は、「ばらす」の内部構造がb-aras-uであり、日本語の一般的な形態論プロセスによって派生できないという点である。*-arasという使役派生接尾辞を想定しなければならないからだ。
 本来ならばbare-ruは、上記のように受動態でもなく使役でもなく、起動(inchoative, Haspelmath 1993)派生接尾辞-erを内部に含むbar-er-uと分析されるべきであろう。そうすれば、baras-uはbar-as-uと分析できるし、(ⅰ)で考えたような「ばらす」と「ばれる」が共存することもないし、他動性の整合性も取れる。
 しかしながら、起動と分析される限り、(1)のような「ばれる」とニ格との共起が説明できない。受動態との関係で例を挙げれば、*「肉がおじさんに焼ける」ではなく、「肉がおじさんに焼かれる」が正しいのである。


(ⅲ)「ばれる」が複他動詞とみなされた。
 三つめは、複他動詞による説明である。複他動詞構文は、3項Agent, Recipient, Themeが意味的にお互いに関係づけられて現れる構文と定義される(Malchukov et al. 2010: 1)。基本的には、Agentが原因となってThemeがRecipientの所へ移動する。そこで、「ばれる」を複他動詞として使おうとする時に、「秘密が所有されている先」をAgent、「ばれる相手」をRecipient、「ばれる事象・内容」をTheme、と考えられなくもない。つまり、(Agentである新一の)「正体」が、「蘭」に向かって、白日の下に晒されるという形で、「移動する」のである。「正体」は主語ではなく、あくまで直接目的語であり、(1)において対格標示を受けているのはそういうわけなのである。そして「蘭」は間接目的語となる(Recipient=間接目的語、Theme=直接目的語であるのは日本語の性質であることに注意)。
 この場合、より典型的な複他動詞「送る」に関して「手紙を送る」が「友人に手紙を送る」と同程度の自然さを持つのと違い、*「正体をばれる」は「蘭に正体をばれる」にも増して不自然であり、文法性がかなり疑わしい。これがこの分析の問題点である。複他動詞としてしか使えず、他動詞として使えない。そのような動詞が世界にあるのだろうか…?


結び
 日本語の受動態はニ格との結びつきが強いという点において、受動態標識-areと同形式の音素列areを含む「ばれる」bare-ruとニ格の名詞句が共起している(1)の状況は、(ⅱ)の説明の説得力を増すものと思われる。一方で、もしも「複他動詞としてしか使えない動詞の存在」を容認することに問題がないのであれば、(ⅲ)の説明に考慮の余地が増えるだろう。「ばれる」が(1)のような議論を起こす文を作ることを可能にさせるのは、この動詞の語彙的意味に大きな要因があるのかも知れない。いずれにしろ、他の動詞に関して相似の現象が確認されれば、事がより明白になるかも知れないし、より複雑になるかも知れない。


References
Haspelmath, Martin. 1993. “More on the typology of inchoative/causative verb  
    alternations” In Comrie, Bernard & Maria Polinsky (eds.). Causatives and transitivity,  
    John Benjamins, pp. 87-120.
Malchukov, Andrej et al. 2010. “Ditransitive constructions: a typological overview” In 
    Malchukov, Andrej et al (eds.). Studies in ditransitive constructions, Mouton De Gryter, 
    pp. 1-64.



※誤記などを訂正(3/19、日本時間・朝)。